2009/11/14

源ファーム 大美浪源 最終話

1947年大樹町生まれ。十勝・大樹町、養豚家。源ファーム代表。
豚にホエー(乳精)を飲ませて育てるホエー豚を平成15年より飼い始める。
現在はホエー豚研究会会長。


どこの生産者も生産することに苦労しているが、それ以上に販路を作ることに苦労している。
農協頼りだったゲンさんもその1人だ。
手塩にかけた豚を欲しいと思うヒトに届けたい。
そう思って農協に卸すだけでなく、自分で販売しようとしてみたが、どうしても売り切ることができない。
余った肉を泣く泣く捨てる日々が続いた。
もともと部位の中で、モモ肉は繊維が多く精肉としては売りにくい。
そこでゲンさんはこのモモを使って生ハム作りをしようと思い立った。

「みんながやっていないことをやらないと、商売にはならない。だからいつだって変人扱いだった。
当時の農協の組合長がね、半田さんと米山さんとボクのことを三バカ大将って呼んでたんだよ」

2年ほど前に念願だった生ハムの専用貯蔵庫を作った。
天井から床まで、1本15kgの骨付きモモ肉が約500本ぶら下げられ出荷を待っている。
いずれこの生ハムを2000本から2500本まで増やし、もっともっと手軽に生ハムを食べてもらいたい。
そしていつか6000本入る貯蔵庫を建てたいと思っている。

「まだ売れてもない生ハムがいっぱいぶら下がってるのに。もう次の大きな倉庫作りたいって。
もうほんと。お父さんはいつだってそうなんだから」

塩漬けは3週間。塩はモンゴルの岩塩だ。
次に室温15度、湿度60%の貯蔵庫で6週間の予備乾燥を行う。熟成度を見ながら、モモ肉の断面部分にラードを塗るグリーシングという作業を行う。
さらに約20か月の間、一定の湿度と温度を保ちながら貯蔵庫でじっくりと熟成させるのだ。

今日はそのグリーシングの日だ。
貯蔵庫に入ると、白いものが塗られたものが上段に吊るされ、下段には切り口の出たものが吊るされている。
上に行くほど熟成の進んだものだという。
同じ白く塗られたものでも、上に行けばいくほど象牙色にほんのりと黄ばんでいる。

ゲンさんが切り落とした脂身を機械にかけ、次々とミンチにしていく。
そこに塩を計量して入れ、胡椒、デンプンを加えて、手で捏ねていく。

「機械じゃダメなんだよね。ほら、こっちはミキサーで混ぜたやつ。ベトッとして塗りにくいの。だから大変だけどこうやって、手で捏ねていくの。」

練りあがったラードを肉の切り口に塗る。
ラードを塗る事で乾燥を防ぎ、急激に水分が抜けていくのを防ぐ。
貯蔵庫から肉を出し、ラードを塗り、高い横竿にモモ肉を戻していく。
大きいものだと18キロ程の生ハムを軽々と持ち運んでいるが、かなりの重労働だ。

日本のスーパーに並んでいる生ハムは「ラックスハム」で、燻製をかけて作っている。
ゲンさんの作る生ハムは「プロシュート」と呼ばれる製法で、塩漬けと乾燥によって熟成させる。
二つとも日本では生ハムと呼ばれているが、製法は全く異なり「プロシュート」のほうがずっと技術が要る。
たとえばグリーシング一つとっても、イタリアでは代々続く専門の家系がいるという。
勘と自分の理屈が頼りのグリーシングが正しかったのか間違っていたのか。その答えが出るまでにこれから3年かかる。

ゲンさんの生ハムを今年、マメヒコで扱うようになった。
それでもまだまだだとゲンさんは思っている。


「生ハムには、柔らかい肉をやや硬めの脂で支える豚肉が理想とされてきたんだけど、ホエー豚は違う。
脂身が柔らかいのに崩れることなく、いいハムができる。
ボクがホエー豚をやっているのはひとえにいい生ハムを作りたいから。ただそれだけ」

日本で一番の生ハムを作るんだ。
おいしい生ハムをとことん追求し、最高の生ハムを完成させてやる。
ひといきに言ってしまえば、それが62歳のゲンさんの夢ということになる。

「スペインの生ハム作りに新しいヒントがあると睨んでるの。
今までの10年が吹っ飛んでしまうような製法が隠されてると思うんだ。
来年の夏にはスペインの生ハム工房を訪ねようと思っているんだよ。
3つ4つ、ヒントがあるんじゃないかと思って」

最近、娘夫婦が後を継いでくれることになった。
昔に比べれば時間ができたので、ゲンさんは働きずくめだった奥さんを連れてあちこち旅行に出かけるようになったという。
よかったですね。と奥さんのすみ子さんに声をかけると、

「違うの。お父さん、もう次のこと考えてるの。
イタリア風のレストランなんか連れてってくれるでしょ。
すると、あぁ、こういう店やりたいんだなってわかっちゃうの。
お財布握ってるあたしに見せて、いいだろいいだろって。
魂胆見え見えなんだから。
あれやることにしたって、いつ言い出すかって、もう冷や冷やしてるんだから。
マメヒコさんからも少し言ってあげてくださいよ。フフ」


先のわからぬ男であるところに、みんな魅かれている。

2009/11/13

源ファーム 大美浪源 第五話

1947年大樹町生まれ。十勝・大樹町、養豚家。源ファーム代表。
豚にホエー(乳精)を飲ませて育てるホエー豚を平成15年より飼い始める。
現在はホエー豚研究会会長。


朝から続々と「ホエー豚」の注文が入る。
それも東京のレストランや高級スーパー、自然食のネットショップから、源ファームのホエー豚「源ポーク」が欲しいと取引の依頼が次々と来る。
カフエ マメヒコも開店以来、ホエー豚のポークビーンズ、ハムレット、生ハムのトーストーリー、ポークソテー、パテと、
源ファームの豚を信頼し続けている。

いまから4年前。
マメヒコを始めようと考えていた2ヶ月ほど前の春。
ボクは国産豆のメッカ、十勝にいた。
そこで大豆の産地の町役場に、マメヒコのことについて説明をした。
なんとか低価格で豆を仕入れたいと思ったからだ。
一通り説明し終えたボクに役場のヒトの反応は冷ややかだった。
豆をメインとしたカフェというのは面白いが、果たしてそんな珈琲のおともに豆を食べに来るヒトがいるのかと。

そもそも。
煮豆を提供したいと企画書にありますが、豆など煮たこともない東京の女の子に、昨日今日で人様に食べさせられるようなものを煮ることなどできるのですかと。
私どもも産地の誇りをかけて煮豆は日夜研究しているが、うまく煮られるようになるには10年はかかりましたよと。
企画倒れではないかと。そう切り崩された。

十勝各地を案内してくれた大樹町に住む砂田さんが、
あきらめ顔で消沈するボクに、面白いヒトがいます紹介しましょう、と会わせてくれたのがゲンさんだった。

ゲンさんはマメヒコの企画書に関心を示すということはまるでなかったと思う。
ただ。
自分が長いこと豚と付き合ってきたこと。
奥さんのすみ子さんは苦労の連続だったこと。
その苦労は今思っても嘘みたいな苦労だったこと。
それらをゲンさんは話した。
ひとつの生ハムを作るには最低でも3年の時間が要る。
だから塩加減を3回試せばそれだけで10年かかるんだ。
だからまだまだ試せてないことがあるんだと。
父ほどの年齢のヒトが、ほほに手を当てながら、ニタッと笑ったあの顔と、奥さんのやれやれとしながら、このヒトについていくしかないんだけどという顔が、
十勝の印象としていつまでも残った。

そう。
北海道の先人たちの苦労に比べれば。
マメヒコを始める苦労、続ける苦労など鼻くそほどでしかない。

長く続けていればついていることがあるもんだよ。

ホエー肉を始めたものの、思うように売れず困っていた。
手塩にかけて育てた豚肉を、そのままゴミとして処理しなくてはならない毎日だった。
そんなある日、有名なテレビ番組「どっちの料理ショー」の取材を受ける。
それから様子は一変した。

当初、別なホエー豚が取材されることになっていた。
十勝に来ていた担当ディレクターがそのホエー豚を東京に送り、スタッフに食べてもらった。
しかし、東京からOKが出ない。
困ったディレクターがなにかアドバイスがないかと源さんのもとをたまたま訪ねた。


「その豚はね、ボクも良く知る豚だったから、残念ながら何の協力もできないよって言ったんだ。
ところが、そのディレクターが東京にうちの豚肉を持ち帰ったら、これは美味しい!!ということになったらしんだよ。
だからうちを取材したいって言ってきたんだけど。
先方のこともあるし、それを無視してうちが出ますってわけにいかないじゃない。
狭い社会だからね。

それでも毎日、毎日ディレクターから電話が来るんだよ。
あんまりしつこいから、じゃぁ、源ファームという名前を公表しないこと、極秘に撮影すること、を条件に取材を受けたんだよ。
そしたらロケの日に、近所のひとが訪ねて来て、ロケ隊を見ちゃった。
そしたらあっという間に、ゲンちゃんのホエー豚がどっちの料理ショーにでるんだよって、ばれちゃった」

放送終了後、電話はひっきりなしに鳴り続いた。
ハムやベーコン、ソーセージも作ったそばからなくなってゆく。
レストランには源ファームの豚丼を食べに来たと海外からも観光客が来る。
おかげで潰れるという心配はなくなった。

「けどね。ホエー豚ブームのせいで、販売用の生肉が急激に伸びた。
そのせいでね。ボクにとってなにより肝心な、生ハム作りができなくなってしまったんだ。
生ハムのために確保していた肉が片っ端から売れてしまうんだから。
結果として、生ハムの完成が3年は遅れてしまった」

2009/11/12

源ファーム 大美浪源 第四話

1947年大樹町生まれ。十勝・大樹町、養豚家。源ファーム代表。
豚にホエー(乳精)を飲ませて育てるホエー豚を平成15年より飼い始める。
現在はホエー豚研究会会長。


朝はきれいに晴れ上がっていたのに。
見ろ!いまじゃどうだ。
空が茶色い砂埃で夜のように染まっている。
ロッジの窓から見える農業用道路も、
すっかり砂埃に視界を遮られ、もはやちょっと先も見えない。

豚舎は大丈夫だろうか。屋根でも飛んだら一大事だ。
いやそれどころか。
「オズの魔法使い」でドロシーが家ごと竜巻に巻き上げられたかのごとく、
せっかく建てたこのレストラン兼仕事場のロッジも、
そのまま持ってかれそうだ。

まぁそうなったらそうでもいいか。

それほどの春の嵐だった。
この日、5月19日に起きた十勝の嵐は、
オホーツク海の低気圧が原因で、大樹町の隣町である広尾町では瞬間風速29.3メートルを記録した。

「風塵」という大変珍しい気象現象です。

と年老いた気象予報士は、全国ニュースでまるでさっきまで嵐の中にいたかのごとく驚いてみせた。
嵐の中にいれば、嵐の中にいるとはわからないものだ。
嵐の外ほど、嵐がきたと声を出し手を振り騒いでいる。

ゲンさんは豚舎も豚も、家族も家も、
すべての無事を確認し終えて、テレビを見ながらなんとなくそう思った。

北海道・十勝の南。高台に上れば日高の海が見とおせる大樹町で、豚屋家業は40年になる。

1頭1頭、自分の豚は自分の眼と直感で状態を確かめながら育ててきた。
ゲンファームがチーズの副産物「ホエー」を豚に与え始めたのは10年前になる。
ホエーとは、チーズを作るときに出てくる「乳清」のこと。
最近は大々的にテレビで「ホエー豚、ホエー豚」と取り上げられるようになり、
「あぁあのテレビで有名なホエー豚をそだてておられる・・・」と言われることが多くなった。
そう言われると何となく複雑な思いになる。
10年前、ホエーを豚に飲ませたゲンさんに理解者はいなかった。

帯広の会社を辞め、24歳で大樹町に帰ってきたゲンさんは、26歳の時に従妹の友達だったすみ子さんと結婚した。
出会ったのが1月の中旬。結婚式は4月1日。
あまりのスピード結婚に、エイプリルフールの冗談だと思って欠席する友人もいたという。

結婚して本格的に養豚業を始めた二人だったが、ほとんどゼロからのスタートだった。

「失敗に失敗を重ね、豚のことが分かるまで7~8年かかったわ」
とすみ子さんは言う。
父母の時代には100頭前後だったが、今では500~600頭の豚を飼っている。
これも現代の養豚業にしては少ないという。
結婚してから今日まで苦労のなかった日はない。
大樹町で2軒まで減った養豚農家を今まで続けてこられたのも、
借金を返してこられたのも、
そして生ハム作りを続けることができたのも、
ゲンさんの傍にはいつもすみ子さんがいてくれたお陰だ。

「女房は辛抱家ですね」

夫婦に転機が訪れたのは今から9年前。
「元気づくり事業」という名のもとに、農業開発普及センターが7団体に補助金を出すことになった。
十勝の事業を活性化することを目的にした補助金制度だ。
そこに名乗りを上げようとゲンさんに誘いをかけたのは、
同じ大樹町で育った幼馴染、インカルシペの米山さんだ。

大樹町からはまだ手を挙げている人がいなかった。

米山さんには白樺の森を開拓し、コテージを作って大勢の人に開放し、大樹町を活性化させたいという夢があった。
ゲンさんには大樹のチーズ作りから出たホエーを飲ませた豚肉を加工し、ホエー豚を広めたいという夢があった。

補助金が下りることが決定し、レストランを併設した源ファームがオープンしたのは平成12年10月21日のことだ。

しかし、ホエー豚はちっとも売れなかった。
ホエー豚のおいしさは理解されず、バラ肉とロースだけがよその豚と同じ値段で安く買い取られた。
ファームの脇には、売れずに残った部位が山積みされ、雪に埋もれていた。

それが「どっちの料理ショー」で取り上げられて少しずつ様子が変わった。

2009/11/11

源ファーム 大美浪源 第三話

1947年大樹町生まれ。十勝・大樹町、養豚家。源ファーム代表。
豚にホエー(乳精)を飲ませて育てるホエー豚を平成15年より飼い始める。
現在はホエー豚研究会会長。


日本の養豚のほとんどが「三元交配豚」という品種だ。
大ヨークシャー、ランドレーヌ、デュロック。
この三品種を掛け合わせて、各養豚家が好みの豚を作りだす。それぞれの個性をいかに出すかが要だが、個体差が大きく、なかなか意図したものを作り出すことが難しい。
さらに三種類の種豚をそれぞれの農場から連れてくるため、病気も蔓延しやすい。
源ファームも豚の病気で何度も痛い思いをした。
病気が原因で経営破たんし、倒産していく養豚業者も多い。

ケンボロー豚とは、1962年にイギリスで開発された品種だ。
病気が少なく、繁殖力があり、健康なのが特徴だ。
肉質は柔らかく脂身が少ないヘルシーな豚とされており、コレステロールも低い。
源ファームのホエー豚はこのケンボローと黒豚の掛け合いで肉質が柔らかく、歯ごたえもある。
ケンボロー豚は病気が少ないが、抗生物質は使っている。

「病気でもないのに、ジャブジャブ抗生物質を使うということはないよ。
ただ、病気の恐ろしさで苦労してるから使わないということもない。なにをどれだけ使ってるかはきちんと公表してる」

いま養豚業も変わりつつある。
豚舎の中で飼うのではなく放牧して飼っているもの。
飼料も全国津々浦々、多岐にわたっている。
近頃ではスペインからドングリを食べさせたイベリコ豚をわざわざ輸入までしている。
各地の養豚家は玉石混淆のブランド豚から頭一つ出ようと必死だ。
その中でホエー豚は今もっとも注目されているブランド豚の一つだ。
ホエーとは乳清のことで、チーズを作る時にできる上澄み液である。

源ファームのホエーは、同じ町で牧場を営む半田ファームにもらいに行く。

「豚にホエーをあげるようになった1年前に、ホエーを飲ませた方がいらしたんですよ。
ホエーは、いわば産業廃棄物だからね。
その処理に困った人がたまたま豚に飲ませた。
そしたら肉がおいしくなったという噂を聞いた」

イタリアでは古くからホエーを豚に与えている。
イタリア料理に欠かせないパルミジャーノレジャーノというチーズはパルマが産地であり、そのパルマはプロシュートと言う生ハムの名産地でもある。
パルミジャーノレジャーノを作る際に出たホエーを豚に飲ませることで、プロシュートができたというのが定説だ。
ゲンさんは生ハム作りの過程で調べていくうちに、ホエーが豚肉を作るのにいいことを知った。

ゲンさんは勝手知ったる感じで半田ファームの倉庫を開け、ホエータンクから自分のトラックに移し始めた。
トラックに積んだ大きな容器にすべて移し終えると、底の方に少しチーズのカスが残った。

「これ見るとね、ああ今日はチーズが上手にできたな、とかいまいちだな、とかわかるんだよ。ククク」

「半信半疑でホエーをあげてみたら、ほんとに味が良くなって驚いた。
肉も脂身も柔らかくなるし、脂身がとけるように柔らかく甘い。
旨みが凝縮されるんだよね。不思議だよね。
でもホエー豚といってもいろいろでね」

近年、ホエー豚といってもその実態は様々だ。
コップ1杯飲ませただけでも「ホエー豚」と言って販売することも出来るし、
生のホエーではなく粉末にしたホエーを飼料に混ぜてホエー豚とするところもある。

「みなさんそれぞれだからね、どれがいいとか悪いとか言えないの。ボクも言うつもりもないしね。
ただ同じホエー豚だから同じだろうと思ってよその豚を食べると味が明らかに違うんだよね。
ほんとはホエーを飲ませている養豚家でやりくりしたいと思ってるんだけど、あまりに様々なもんだから。
『十勝ホエー豚研究会』というのを作って規定を設けることにしたの」


規定ではホエー豚とは、生後30日から95日の間に1頭当たり50リットル以上のホエーを与えられたものとし、
さらに100リットル以上のものは「マスター」とする。
源ファームでは、期間内に1頭当たりおよそ110リットルのホエーを与えているという。

「でも、わかんないんだよ。
いまあげてるホエーが適当かどうか。
だから来年は、もっともっと豚に飲ませるホエーの量を倍にしようと思ってるんだよ。
倍にしたらさて、どれほど味が変わるのか。
だれかがやってみなきゃわかんないんだから。
豚はね、品種、個体差、えさ、飼育方法で全く味が違う。
さらにね。つぶしてから一週間。
つまり賞味期限ぎりぎり、いやむしろ過ぎたもののほうが、新鮮なものよりずっとずっと美味しいことが最近わかった。
だから奥が深いんだ。まだまだ試さなきゃいけないことが山ほどある」

2009/11/10

源ファーム 大美浪源 第二話

1947年大樹町生まれ。十勝・大樹町、養豚家。源ファーム代表。
豚にホエー(乳精)を飲ませて育てるホエー豚を平成15年より飼い始める。
現在はホエー豚研究会会長。


大樹町で生まれ育ち、帯広の大学を卒業したゲンさんは民間会社に就職した。
しかし、自分がやりたかった製造の仕事をやらせてもらえず、実家の豚屋さんを継ぐことにした。

「一度出てった町に、再び戻ってきたからには、何があってもこの土地でやり続けようと決めたね」

しかし、養豚業はそんなに甘くなかった。

豚肉の相場というのはかなり不安定だ。
100頭そこらの豚では、生活するには頭数が少なすぎた。
そこで、大きな豚舎を建てようと建設資金を借りに、農協へ行った。
しかし農協は融資を受け入れなかった。
けれど、ゲンさんは一度やると決めたことは、やりたいのだ。
やらずに済ますということはない。
金がない。ヒトがいない。経験もない。
やれない理由はいくらでもあったが、こういう場合、結果としてやれないのは、よそ、のせいではない。
やりたいと言い出したヒトの、熱意、が足りないにすぎない。

だから豚舎は建った。

建ったは建ったが、年間75万円の返済を、豚だけでは返せないことが何度もあった。

「そんなときはね、父親が庭に植えた木イチゴをさ、
女房と二人で仕事の合間を縫っては摘んでさ。
せっせとジャムにして瓶に詰めて売ったんだ。
その収入が40万から50万。
それでも足りない。
だから知恵を絞った。
自分たちに可能な現金収入の方法はなにかとね。

それでね、ソーセージとサラミの詰め合わせを年に3回送るというギフトボックスを思いついた。
いろんな知人の紹介で会員を募ったの。
その会員数がたったの20人。
それでもね。
なんとか、返済金に充てることはできたんだよ。
友達が救ってくれたんですよ。
今こうしてあるのは皆さんのおかげ。
感謝の気持ちを忘れたことはない」

ほほに手を当てながら、ニヤッと笑った。

今日は豚を売りに行く日だ。
早朝から豚舎にいる豚をトラックに乗せる。
これが一苦労だ。
なにげない作業にもコツがある。
豚の気質が判らないとなかなかトラックに積むことすらできない。
養豚業に限らないが、家畜を飼うのは金と手間がえらくかかる。
源ファームも1ヶ月の豚のえさ代だけでもうん百万円にもなるという。
だから、つねに現金を手に入れるために、週に1回、豚を肉にする。
屠殺は帯広の畜産センターに頼んでいる。

「まとまったお金があればいんだけど、こうでもしないと回らないのよ」

雪をかぶって真っ白に連なる美しい日高山脈を窓外に見ながら、畜産センターまで1時間以上車を走らせる。
トラックの荷台には、120kgまで成長した豚が7頭。

「去年、このトラックをようやく買ったの」
トラックには”源ファーム”と真新しいロゴが印刷されている。


「じつはね、過去に2回、トラックから豚を落としたことがあったの。
結婚当初から、24年間も乗り続けたトラックだったからね。
荷台の底に穴があいてた。
木の荷台の床がボロボロでさ。板で補強しながら使ってたんだけど。
ある日、畜産センターの門の前を走ってたら、豚がその穴から落ちちゃった。
近くで花見をしてた畜産センターの職員が追いかけてくれて。
あんたあんた、豚が落っこってるよって。クククク。

豚はあぁ見えてすごい臆病なんだよ。
だから山に逃げ出すなんてことは無いよ。
落ちたら落ちたまんま。
じっとそこに座ってる。クククク。
もうそんな心配はないけどね」

源さんは口数少ないがその話しはどれも魅力的だ。
だから、みんなついついだまされる。

妻のすみ子さんが言う。
「無理して建てた豚舎の25年ローンが、去年、ようやく払い終わったの。
そしたら今度は新品のトラックでしょ。
また一からローン。
必要なものだから仕方ないんだけど、そういうのお父さん。ちっともわかってくれないんだから」

2009/11/09

源ファーム 大美浪源 第一話

6.jpg1947年大樹町生まれ。十勝・大樹町、養豚家。源ファーム代表。
豚にホエー(乳精)を飲ませて育てるホエー豚を平成15年より飼い始める。
現在はホエー豚研究会会長。


会社人として決まった給料を決まった日にもらい、
さほど楽しいなどということはなく、
かといえつまらぬということもなく、
なんとなく時間内に仕事をし、
こんな仕事に志を持てという部長の気が知れない、
ワタシを過小評価する会社に苛立つ日々、
幾年が過ぎたある日、
ひょんなことから打ち込める仕事が運良く見つかって、
さぁさぁ、見てろ見てろ、入社してはじめての高揚、
意義ある深夜帰宅が続き、いよいよだぞっ!
賞賛を手にする前で部署が変わり、
志半ばでその夢はだれかに託され、
託した相手はそれがだれかの夢だったとはみじんも思っておらず、
だったらオレがやり遂げたかったと石を噛むもむなしく、
次なる部署は定時帰宅がモットー、
私鉄に揺られ、自分は果たしてなにをしてきたんだろう、
なにをしていったらいんだろう、
つり革にもたれながら、
まぁ給与が減ったわけでもないし、手当もわずかに増えた、
次男坊のサッカーのコーチも忙しくなってきたから、
ちょうどいいとも言える。
改札を出てバスの列まで走り、新興の宅地に買ったわが家まで、
プリウスまで、にわかガーデニングまで、
妻まで子供まで、同居の母まで23分、木枯らしに襟立て坂道を上っていく。

じっとほほに手を当て聞き、聞き終えると、首をすくめ、ニタッと笑いながら、きっとこう答えるだろう。

12.jpg「サラリーマン人生が幸せなのか、ボクみたいのが幸せなのか。そういうのはわかんないよ。
けど。
豚屋って言うのはだれかと代わるなんてわけにもいかないし、
失敗したら全部自分の身に降りかかる。

うまくいってたとしても過去の失敗の穴埋めで手一杯。

志を貫いてますね、なんて言われるけど、やろうと思っていたことがまだ途中なだけだよ。
生ハム作りもまだまだ完成途上だしね。
やめるにやめられなかった。
こういう生き方しか、ボクにはできなかっただけ」

サラリーマンをやめ、養豚業を始めたゲンさんにとって、この30年は失敗の連続だった。
それでも。

いまではホエー豚の先駆者として、全国から注文はひっきりなしだし、念願だった生ハムもなんとか製品化にこぎ着けた。
後継者もできたし、端から見ればうらやましいほど順風だと思われている。

「成功?そんなこと全然無いわよー、いつも家族の靴下は穴だらけ。子供たちはどうしてうちはこんなに貧乏なのって言いながら育ったんだから」
と奥さんは困った顔で笑う。

ゲンさんは時々「オレはただただラッキーだった」と言う。
成功したとかいう世間の風評を気にとめているようには見えない。

北海道、大樹町。
大美浪源(ハジメ)さんはこの町で生まれ、子供のころからゲンちゃん、と呼ばれてきた。
だから源ファームは、ゲンファーム。
ゲンさんの祖父母は岩手と山形から大樹町に来て開墾をはじめた。

「小さい頃は大事にされ、甘やかされて随分我儘に育ったよ」

学校に行く前に畑で仕事をし、帰って来てからも祖父母の畑仕事を手伝った。
農家は皆、卵を取るために鶏を飼い、肉を取るために豚を飼い、乳を取るために牛を飼っていた。
日給の鶏。月給の豚。年給の牛。
自分たちで食べるものは全て自分たちで育て、買わなくてはいけないものは豚や牛乳を売って得た金銭で手に入れた。
当時、「開墾の始まりは豚と一つ鍋」という言葉があった。
豚と同じ鍋から食べ物を分かち合う。
開拓時代の入植者にとって、豚は身近で必要なものだった。

正月、各農家が毎年持ち回りで豚を1頭だけ潰し、ごちそうとしたのは北海道では普通のことだ。

「うちは川沿いにあったんだよ。
当時は川に沿って入植したからね。
物の流通も川を利用した。
だからね。
川が氾濫するでしょ。そうすると牛乳を売りに行けなくなるんだよね。
トラックの物流が当たり前の時代からは信じられない話しだよね。
でも、どの家も貧しく、どの家も同じような生活をしていたから、今に比べると、とても暮らしやすかったよ」

昭和30年頃は全盛期だった養豚家、豚屋さんも、今では源ファームを含め、2軒まで減った。

2009/11/07

遠軽のとうさん 最終話

04.jpg平間正一  昭和5年、中湧別生まれ。上湧別に住み、先代より長谷川商店とつきあいのある農家。無農薬で地豆を作っている。


終戦の年、長谷川清繁さんは11歳。平間正一さんは15歳。
戦争は終わったが、彼らは食うや食わずの生活と闘っていた。

平間のとうさん「終戦の年、うちの爺さんの弟が樺太にいて、妹は満州にいて、
そういうのがみんな引き上げてきたわけ。
けどその年は凶作でね。
食うもんなんかないんだわ。かと言って食わんかったら体がもたん。
そこで荒れ地の木を切って根を起こして、一株一株そこに豆を植えたもんだよ」

長谷川のとうさん「麦、えん麦、いなきび、二番米、そこに豆入れて食べたよね」

平間のとうさん「食べた食べた」

長谷川のとうさん「あれは貝豆だとか前川だとかあっさりした豆だったから食べられた」

平間のとうさん「よくあれで栄養失調にならなかったな。

それに耐えなきゃならんて気持ちで耐えていったさな」

長谷川のとうさん「たまに芋、かぼちゃ」

平間のとうさん「芋のおつゆなんかなら、うまいうまいって夢中になって食ったもんだ。めったにあたらんかった芋が」

13-6.jpg長谷川のとうさん「早く言えばどうにかこうにか豆で命をつないだんだよ。豆が終戦の餓死を救った」

平間のとうさん「そうだそうだ」

ストーブに平間のとうさんが薪をくべる。
平間のかあさんは婦人会で温泉に出かけていない。

長谷川のとうさん「それにしても、親はよく子供たちを餓死させんかったね」
平間のとうさん「芋でもかぼちゃでも大根でも、腹いっぱい食わしたくて親爺はこの土地に入ったもんさな。
そのときはもう腹立って腹たって仕方なかった。
腐れ親爺!何だってこんなとこに来やがって。学校は遠いし」
長谷川のとうさん「そうだそうだ」
平間のとうさん「親の気持ちは、オレくらいの歳になって、やっと良くわかるんだ。
オレの親爺は、馬に大きな荷車をつけ、荷台に乗りながら馬を操る馬車追いだったのさ。
それで子供が8人。

馬車追いでは食わせれんと思って未墾地の払い下げを買って、ここに来たもんさな。
このあたりは粘土地だったから水もちが良かった。
それで水田を8町部ほどやってたんだ。
冷害が多いとこだったけど、なんとか米は作れた。
ところがさ。

13-7.jpg減反政策ということになって、田んぼを埋めれってことになった。
まぁ休耕にするんだから奨励金もくれたさね。
それでビートや馬鈴薯をみんな機械でやるってことになって。
痩地(そうち)改良するってことになって、ずいぶんと土も入れ替えた。
けれど、田んぼから急に畑になってな。

何とか一人前の百姓になろうとトラクター買って。
25年の年賦で。
家買ったり機械買ったり、払い続けて、
自分のふところ肥やすなんてことなかったの。
まさに機械の奉公だな。

なにからなにまでわからんしょ。

ほんとにあの頃はもう、頭も何も狂いそうだった。」

表はまた冷たい雨が降ってきた。
平間のとうさんと長谷川のとうさん、服部のとうさんは、ストーブを囲んで昔の苦労話を懐かしんでいる。

平間のとうさん「オレはオレで弟や妹より余計食いたいさな。
でも兄弟みんな平等、一切れなら一切れ。
小さいやつはいいさ。
でもオレはこれから仕事しなんきゃならんだから
そんなもんじゃたらん。

ある日たまりかねて、親爺に言ったんだ。

『俺は馬だ草だって運ばなきゃなんない。
妹や弟の胃袋より大きんだぞっ。
だから食わんきゃもたん』

そしたらな。
『言いたいこというなーっ』てデッキで思いきりぶんなぐられた」

長谷川のとうさん「そういう時代だった。親爺に殴られたこぶの上からさらに殴られた」

30.jpg平間のとうさん「当時ビルマ豆があった。ビルマを小豆代わりに蒔いてな」

服部のとうさん「ビルマ豆はよくできるし、塩餡にしたら、またおいしんだ。砂糖はむかし貴重だったから塩餡にして食べたもんだ」

長谷川のとうさん「ビルマ饅頭」

平間のとうさん「あった。これだって滅多に食べられんかった」

長谷川のとうさん「いくらか砂糖はあったけど、貴重だったね」

平間のとうさん「畑で育ててたビートを煮詰めると飴になるんだ。その甘みをつけると、ごちそうになる。この饅頭がめったにあたらないんだから」

服部のとうさん「うちの女房は米のとれる所に育ったんだ。それが瀬戸瀬のオレのところに嫁いだろ。だから米なんかないの。
小麦、エン麦、そば、裸麦、ひえ、あわ、いなきび、芋、かぼちゃ、豆。
そういうのを食べてたんだ。
女房の母親は米を食べるたびに泣いたって。娘に米を食べさせてやりたいと」
長谷川のとうさん「何にも食べるものがない時はえん麦だって、押しつぶしてオートミールのように食べた」
服部のとうさん「それでもな。
米のないオラんとこに嫁いだのは、なんて言ってもとうさんの魅力があったわけさ。
ある日、オレの自転車がパンクしたんだ。それでたまたま寄った家が女房の実家さ。
ここからロマンスが生まれた」

平間のとうさん「冗談はさておき。よくこれまで生きてきた」

長谷川のとうさん「ほんとだ」

服部のとうさん「ほんとうだ」

31.jpg

この町に3人のとうさんがいる。
とうさんたちにとって作為通りではなかったかもしれないけれど、三人三様、激動の変化をしたたかに生き抜いてきたことは間切れもない。

 2代目商人として父への敬意と反発。
 弟妹の生き死にを支える長男の責任。
 小さな集落で大規模農業を拒む意志。

町は2度の大戦争をはさみながら、豆やハッカ、アスパラにリンゴ、米に馬鈴薯にビート。
酪農や林業も交えながら、代が変わるごとにその様子をせわしなく様変わりさせてきた。
一言でいってしまえば、高度経済成長の時代の移り変わりだが、その横風のなか多くの別離があったにもかかわらず淡々としていたことは、きっと傍目以上に難しい。

服部のとうさんが最後にこんなことを言った。

「やっぱり今よりも昔の方が良い時代だった。
昔は確かに封建的だと言われたけどな。今のような自分自分ていう身勝手な時代よりも、みんなここで頑張るしかないという覚悟があったから思いやりがあったさな。
町の灯りが減ったから、思いやりまで減ったのか。
思いやりが減ってしまったから町の灯りが減ったのか。

若いときの苦労は買ってでもしろという言葉があるな。
あれは年取って苦労を初めてすると身に染みるっていうことだ。
だから若いうちに買ってでもしとけと。
若いころはおかげさまで苦労のしっぱなしだったから、いまじゃ苦労なんて思うことはなにもないな。

昔の時代がよかったのは、若いうちに苦労ができたからだな」

海岸プチまでせまった流氷が、ガンガンと互いにぶつかる音が間近に聞こえる。
それをここいらじゃ流氷の鳴き声という。
もうじき三人のとうさんの住むこの町に、流氷の鳴く冬が来る。


13-11.jpg

2009/11/06

遠軽のとうさん 第五話

01.jpg服部行夫   大正元年、遠軽生まれ。瀬戸瀬地区に、馬とともに暮らしている。馬の堆肥を使い昔と変わらぬやりかたで営む農家。

服部のとうさん、長谷川のとうさん、そして平間のとうさんに、年末カフエ マメヒコに来てこの惨憺たる作況を伝えてもらうという企画を打診していた。

服部のとうさん「あー、情けない。ほんとにこんな馬鹿雨の年はないな。初めてだぞよ。
東京に呼ばれてもな、みな様に振る舞うものがなにもないぞよ。
いつもの年なら東京に豆担いで行って、腹いっぱいまんじゅうでもこしらえて食わしてやるんだがな。
手ぶらで行くなぞ、あずましくない」

服部のとうさん「これだけ。まぁ一休みしよう」
26.jpg服部のとうさんはお茶が大好きだ。
薪ストーブに鉄瓶が二つも常にくべてあり、
お茶の葉は京都のものときめている。

服部のとうさんはこう言う。

「こんだけ凶作でも、こうして上等なお茶が飲め、白い米も食えるんだから。
こんなぜいたくは昔はできないぞ」
27.jpg長谷川のとうさん「いつの時代がよかったかな、とうさん」
そうたずねると長いこと、んーと唸って、
服部のとうさん「わかんないが、昭和でいえば40年ごろは」
長谷川のとうさん「うん、にぎやかな時代だったね」

ホワイトアスパラガスというのがある。
通常のグリーンのアスパラガスの倍もの値が付く白いアスパラガスは
当時の遠軽を大いに賑わせた。
湧別にホワイトアスパラガスの缶詰工場があり、そこに質のいいアスパラを卸すことができれ
ば大金をつかめた時代があったのだ。
一反20万円は稼げた。

アスパラガスは驚くほど早く伸びる。
一日に10センチも伸びる。
ホワイトアスパラガスは地表に出ずまだ土のうちにいるそれを掘り出すことで、
その甘さと白さを保つ。
少しでも日に当たると色がついて価値がなくなる。
服部のとうさんも昔はそれにしゃかりきになっていた。
地表をいつもきれいにきれいにし、目を凝らし、
じっと土の表面にできる、わずかなひび割れを、明け方に探す。
しかし、3年4年すると眼が疲れてできなくなった。

過ぎ去りし人生は早い。

28.jpg終戦の年、昭和20年。

遠軽のとうさんたちは、それぞれの夏を迎えていた。
当時20歳の兵隊だった服部行夫さんは、
函館で津軽海峡の見張り番をしているうちに終戦を迎えた。
ついに、兄たちのように前線に出向くことなく、無事、瀬戸瀬駅に降り立った。
けれど。
出迎えた家族、とりわけ母の気持ちは複雑だったろう。
一足先に戦地へ行った兄たちは英霊となり、この瀬戸瀬駅には
行夫さんひとりしか帰ってこなかった。

石北本線、瀬戸瀬駅。
風情があると言えばそうかもしれないが、ひとことで言ってしまえば小さな田舎の駅。哀れなほど寂れてしまっている。
かつてこの駅前の商店街を歩けば、すれ違うひと同士の肩がぶつかった。

それほどにぎわったことが一瞬でもあったという話しを、今のこの町を知る人の誰が信じようか。
この駅の改札を通って多くの人が町に入り、そしてそれより多くの人が改札を通ってこの町を去っていったのだ。

その頃は80戸あった部落もいまでは数えるほどしかない。

29.jpg牧草地となっている5町ほどの山と5町ほどの農地に、妻のツルさんと息子さん家族3人で食べるためのわずかの野菜、それと長谷川のとうさんに頼まれた豆を作っている。

服部のとうさんの家の脇に母屋と同じ大きさの馬小屋がある。
そこには二頭の農耕馬がいる。
かつて、トラクターに替わるまで、馬はどこの農家にもおり、苦楽をともにした家族だった。
機械化奨励、どの農家も機械のために借金を重ねていく中で、服部のとうさんはなぜかそれを拒んだ。

服部のとうさん「おじさんは農業を大きくしたくなかったんだ。そういうのはいずれダメになるとわかってたんだな。今でも馬はちゃんと働いてくれる。

言っちゃ悪いが牛屋さんはみんな億の借金だぞよ。
もう知らねぇ、なるようになれとやってる。
昔の人は偉いこと言った。
転ばぬ先の杖。
転んでしまってからでは、痛いだけじゃ済まされない。
みんな首回らなくなってこの町を去ってったんだ」

2009/11/05

遠軽のとうさん 第四話

02.jpg長谷川清繁  昭和10年、遠軽生まれ。貝豆やパンダ豆、ビルマ豆など昔ながらの地豆を扱うべにや長谷川商店の二代目。

 

秋。収穫を迎えた遠軽は惨憺たる状況だ。
結局、夏以降気温は上がらず、結果として平間のとうさんの豆は全くといっていいほど収穫できなかった。

平間のとうさん「お盆には小豆(しょうず)が花咲くっていうのが標準でしょ。
標準なんだ。
それがおめえ。
今年はお盆でたった10センチくらいしかならんかったもな。
小豆以外の豆も水焼けして葉っぱが赤くなっちゃったもん」

長谷川のとうさん「結局、小豆はどうしたの」

平間のとうさん「あきらめて早々に土と一緒にすき込んじまった」

長谷川のとうさん「この畑は?」

平間のとうさん「かろうじて生き残った前川金時だ。まだ濡れてるから刈り取りもできないの」

平間のとうさんは長谷川のとうさんのために、まったくの無化学肥料、無農薬で昔ながらの地豆を作っている。
今年はわずかに前川金時がとれそうだ。
前川金時は一般に出回る大正金時より色も濃くしっかりとして小豆のようなこくもある。

湿った畑の前で平間のとうさんと長谷川のとうさんは静かにたばこを吸った。

平間のとうさん「長谷川商店にはうちの親爺もおれも代々世話になってる。こんな種しかとれないような年は初めてだ。申し訳ないな」

長谷川のとうさん「なんも、お互い様。よくね、親爺が言ってたの。
ヒトを泣かした金はすぐになくなる。
農家いじめてこすくやった問屋はみんな潰れた。
こうして平間のとうさんと人間関係がずっと続いてるっていうことが、ほんとに嬉しい」

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13-23.jpg長谷川のとうさんの、そのまたとうさんは、愛知から遠軽の雑穀商の奉公にやって来た。
そして遠軽近く倶知安(くっちゃん)の母と見合い結婚し、7人の子供に恵まれた。

長谷川のとうさんの上には姉と兄。
兄はラガーマン、そして地元のスターであり、地元からの羨望のまなざしを受け東京の大学に行った。
さて、長男がいなくなった遠軽、長谷川商店では、次男坊だった長谷川のとうさんが、
厳しい父と2人、店を切り盛りすることになる。

長谷川のとうさんはこう思い出す。

「そりゃね、オレだって大学に行きたかった。

母はよくこう言ったの。
『兄妹で一番頭がいいのは清繁、おまえだよ。
いいかい。

頭が良んだから大学なんか行かなくたってちゃんとやれるよ。
あんたは遠軽に残って兄ちゃんの分まで頑張るんだよ』

そのときはそうかなと思って頑張ったさ。
あの頃は、母にだまされ、だまされやったようなもの。

もう17、18から、60kgの豆をしょわされてね。
ちょっとでも弱音吐くと、親父は頭をバンバン叩いて。25までは叩かれた。


そんなときも母は
『お父さんはあんたを憎らしくて叩いてるんじゃないよ』ってね。

13-25.jpg夜逃げしようと布団を縛ったことが2回あったの。
けど。
兄貴は私立の大学に行ってしまったし、自分まで出てったら残った母が苦労すると考えてしまう。
その辺まで出てったけど、思いとどまるほかなかった。

豆がわかるまでに15年かかると親爺はよく言ってた。

親爺にこっぴどく叩かれた分、仕事は3年早く覚えたと思う。
豆を見る目には今でも自信がある。これは財産だよ。
実際いま豆を見る目があるヒトがいないよ。
豆の良し悪しがわからんから、正しい値段がつけられない。
豆は見た瞬間に良し悪しがわからなきゃダメなんだよ。
見てから20秒で価格を決めなくてはならない。大きく損をする。
そんな時代だった」

湿った畑の前で平間のとうさんと長谷川のとうさんは静かにたばこを吸った。

平間のとうさん「ここらはお互いに助け合ったとこだよぉね」

長谷川のとうさん「ほんとだ」

平間のとうさん「ちょっと昔はね。つくり味噌だったからね。みんな自分でね。
ほんとここらはおれんとこ味噌がないっちゅったら、となりが持ってきてくれるんだ。
となりがおれんとこに味噌ないっちゅったら持ってってやんの。桶に一つくらいずつ」

長谷川のとうさん「今はもう残念ながらね、それがあんまりないもね」

平間のとうさん「ほんとに人の気持ちのつながり。これがないからね。
人を殺したり引ったくりしたり。人間関係が、全然成ってないんだよね」

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2009/11/04

遠軽のとうさん 第三話

01.jpg長谷川清繁  昭和10年、遠軽生まれ。(写真中央)
貝豆やパンダ豆、ビルマ豆など昔ながらの地豆を扱うべにや長谷川商店の二代目。

平間正一   昭和5年、中湧別生まれ。(写真右)
上湧別に住み、先代より長谷川商店とつきあいのある農家。無農薬で地豆を作っている。


服部行夫     
大正元年、遠軽生まれ。(写真左)
瀬戸瀬地区に、馬とともに暮らしている。馬の堆肥を使い昔と変わらぬやりかたで営む農家。

北海道、上湧別。
この町で豆を作り続けてきた平間正一さん(79)は、この夏ほどひどかった年を知らない。


13-9.jpg畑に出ると、畝には水がたまっている。

長谷川のとうさん「いやいやいや、とうさんどうだい。畑のほうは」

平間のとうさん「いやいやいやいや、どうにもこうにもな」

長谷川のとうさん「とうさん。これは話し通り気の毒だ。かろうじて花つけるかどうかってとこだな」

平間のとうさん「イヤー全くだ。まったく丈が伸びん」

長谷川のとうさん「これだけ雨降るとね、肥料っけが全部下に下がったんじゃないだろうか。
豆そのものには肥料がいかなかったんだな」

平間のとうさん「日照時間も少ないしな」

長谷川のとうさん「地熱もないんだわ、とうさん。これは秋が心配だな」

13-17.jpg平間さんの土地はもともと粘土質で水はけがいいとは言えないところにある。
オホーツクにほど近い上湧別という町は遠軽に比べても冷涼で、昔から冷害の多い場所だ。

瀬戸瀬の服部さんの家に向かう。
あすこはここよりは少しましかもしれない。山間でオホーツク海にも遠く、水はけも悪くない。

長谷川のとうさん「平間のとうさんところは、思った以上に悪いな」

遠軽の隣町、瀬戸瀬。
この町で馬を飼いながら、昔ながらのやりかたで70年農を営んできた服部さんも、こんな年は初めてだ。

服部のとうさん「いやいやー、こっちだってわやくちゃだ。
70年やって初めてだな。100年に一度の雨でないかな。今日もこんなんじゃ店じまいだな」

服部のとうさんはこの年、長谷川商店のすすめで、全国の様々な地豆を実験的に植えていた。
それもこの雨で生育はよくない。
服部のとうさんと長谷川のとうさんに札幌からテレビの取材がきている。
ここ数年、二人はテレビや雑誌、新聞と引っ張りだこなのは、地豆を扱っていることもさることながら、その木訥としながらもユーモアある二人の人柄によるところが断然大きい。
テレビカメラの前でも物怖じすることなく、いつまでも相手が納得するまで話してくれる。

13-19.jpg遠くの山がかすんでいる。
今年、あの山の上に雲のかからない日はなかった。
あの山の雲がとれない限り、晴れることはない。

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