2009年11月14日

源ファーム 大美浪源 最終話

1947年大樹町生まれ。十勝・大樹町、養豚家。源ファーム代表。
豚にホエー(乳精)を飲ませて育てるホエー豚を平成15年より飼い始める。
現在はホエー豚研究会会長。


どこの生産者も生産することに苦労しているが、それ以上に販路を作ることに苦労している。
農協頼りだったゲンさんもその1人だ。
手塩にかけた豚を欲しいと思うヒトに届けたい。
そう思って農協に卸すだけでなく、自分で販売しようとしてみたが、どうしても売り切ることができない。
余った肉を泣く泣く捨てる日々が続いた。
もともと部位の中で、モモ肉は繊維が多く精肉としては売りにくい。
そこでゲンさんはこのモモを使って生ハム作りをしようと思い立った。

「みんながやっていないことをやらないと、商売にはならない。だからいつだって変人扱いだった。
当時の農協の組合長がね、半田さんと米山さんとボクのことを三バカ大将って呼んでたんだよ」

2年ほど前に念願だった生ハムの専用貯蔵庫を作った。
天井から床まで、1本15kgの骨付きモモ肉が約500本ぶら下げられ出荷を待っている。
いずれこの生ハムを2000本から2500本まで増やし、もっともっと手軽に生ハムを食べてもらいたい。
そしていつか6000本入る貯蔵庫を建てたいと思っている。

「まだ売れてもない生ハムがいっぱいぶら下がってるのに。もう次の大きな倉庫作りたいって。
もうほんと。お父さんはいつだってそうなんだから」

塩漬けは3週間。塩はモンゴルの岩塩だ。
次に室温15度、湿度60%の貯蔵庫で6週間の予備乾燥を行う。熟成度を見ながら、モモ肉の断面部分にラードを塗るグリーシングという作業を行う。
さらに約20か月の間、一定の湿度と温度を保ちながら貯蔵庫でじっくりと熟成させるのだ。

今日はそのグリーシングの日だ。
貯蔵庫に入ると、白いものが塗られたものが上段に吊るされ、下段には切り口の出たものが吊るされている。
上に行くほど熟成の進んだものだという。
同じ白く塗られたものでも、上に行けばいくほど象牙色にほんのりと黄ばんでいる。

ゲンさんが切り落とした脂身を機械にかけ、次々とミンチにしていく。
そこに塩を計量して入れ、胡椒、デンプンを加えて、手で捏ねていく。

「機械じゃダメなんだよね。ほら、こっちはミキサーで混ぜたやつ。ベトッとして塗りにくいの。だから大変だけどこうやって、手で捏ねていくの。」

練りあがったラードを肉の切り口に塗る。
ラードを塗る事で乾燥を防ぎ、急激に水分が抜けていくのを防ぐ。
貯蔵庫から肉を出し、ラードを塗り、高い横竿にモモ肉を戻していく。
大きいものだと18キロ程の生ハムを軽々と持ち運んでいるが、かなりの重労働だ。

日本のスーパーに並んでいる生ハムは「ラックスハム」で、燻製をかけて作っている。
ゲンさんの作る生ハムは「プロシュート」と呼ばれる製法で、塩漬けと乾燥によって熟成させる。
二つとも日本では生ハムと呼ばれているが、製法は全く異なり「プロシュート」のほうがずっと技術が要る。
たとえばグリーシング一つとっても、イタリアでは代々続く専門の家系がいるという。
勘と自分の理屈が頼りのグリーシングが正しかったのか間違っていたのか。その答えが出るまでにこれから3年かかる。

ゲンさんの生ハムを今年、マメヒコで扱うようになった。
それでもまだまだだとゲンさんは思っている。

「生ハムには、柔らかい肉をやや硬めの脂で支える豚肉が理想とされてきたんだけど、ホエー豚は違う。
脂身が柔らかいのに崩れることなく、いいハムができる。
ボクがホエー豚をやっているのはひとえにいい生ハムを作りたいから。ただそれだけ」

日本で一番の生ハムを作るんだ。
おいしい生ハムをとことん追求し、最高の生ハムを完成させてやる。
ひといきに言ってしまえば、それが62歳のゲンさんの夢ということになる。

「スペインの生ハム作りに新しいヒントがあると睨んでるの。
今までの10年が吹っ飛んでしまうような製法が隠されてると思うんだ。
来年の夏にはスペインの生ハム工房を訪ねようと思っているんだよ。
3つ4つ、ヒントがあるんじゃないかと思って」

最近、娘夫婦が後を継いでくれることになった。
昔に比べれば時間ができたので、ゲンさんは働きずくめだった奥さんを連れてあちこち旅行に出かけるようになったという。
よかったですね。と奥さんのすみ子さんに声をかけると、

「違うの。お父さん、もう次のこと考えてるの。
イタリア風のレストランなんか連れてってくれるでしょ。
すると、あぁ、こういう店やりたいんだなってわかっちゃうの。
お財布握ってるあたしに見せて、いいだろいいだろって。
魂胆見え見えなんだから。
あれやることにしたって、いつ言い出すかって、もう冷や冷やしてるんだから。
マメヒコさんからも少し言ってあげてくださいよ。フフ」

先のわからぬ男であるところに、みんな魅かれている。

2009年11月13日

源ファーム 大美浪源 第五話

1947年大樹町生まれ。十勝・大樹町、養豚家。源ファーム代表。
豚にホエー(乳精)を飲ませて育てるホエー豚を平成15年より飼い始める。
現在はホエー豚研究会会長。


朝から続々と「ホエー豚」の注文が入る。
それも東京のレストランや高級スーパー、自然食のネットショップから、源ファームのホエー豚「源ポーク」が欲しいと取引の依頼が次々と来る。
カフエ マメヒコも開店以来、ホエー豚のポークビーンズ、ハムレット、生ハムのトーストーリー、ポークソテー、パテと、
源ファームの豚を信頼し続けている。

いまから4年前。
マメヒコを始めようと考えていた2ヶ月ほど前の春。
ボクは国産豆のメッカ、十勝にいた。
そこで大豆の産地の町役場に、マメヒコのことについて説明をした。
なんとか低価格で豆を仕入れたいと思ったからだ。
一通り説明し終えたボクに役場のヒトの反応は冷ややかだった。
豆をメインとしたカフェというのは面白いが、果たしてそんな珈琲のおともに豆を食べに来るヒトがいるのかと。

そもそも。
煮豆を提供したいと企画書にありますが、豆など煮たこともない東京の女の子に、昨日今日で人様に食べさせられるようなものを煮ることなどできるのですかと。
私どもも産地の誇りをかけて煮豆は日夜研究しているが、うまく煮られるようになるには10年はかかりましたよと。
企画倒れではないかと。そう切り崩された。

十勝各地を案内してくれた大樹町に住む砂田さんが、
あきらめ顔で消沈するボクに、面白いヒトがいます紹介しましょう、と会わせてくれたのがゲンさんだった。

ゲンさんはマメヒコの企画書に関心を示すということはまるでなかったと思う。
ただ。
自分が長いこと豚と付き合ってきたこと。
奥さんのすみ子さんは苦労の連続だったこと。
その苦労は今思っても嘘みたいな苦労だったこと。
それらをゲンさんは話した。
ひとつの生ハムを作るには最低でも3年の時間が要る。
だから塩加減を3回試せばそれだけで10年かかるんだ。
だからまだまだ試せてないことがあるんだと。
父ほどの年齢のヒトが、ほほに手を当てながら、ニタッと笑ったあの顔と、奥さんのやれやれとしながら、このヒトについていくしかないんだけどという顔が、
十勝の印象としていつまでも残った。

そう。
北海道の先人たちの苦労に比べれば。
マメヒコを始める苦労、続ける苦労など鼻くそほどでしかない。

長く続けていればついていることがあるもんだよ。

ホエー肉を始めたものの、思うように売れず困っていた。
手塩にかけて育てた豚肉を、そのままゴミとして処理しなくてはならない毎日だった。
そんなある日、有名なテレビ番組「どっちの料理ショー」の取材を受ける。
それから様子は一変した。

当初、別なホエー豚が取材されることになっていた。
十勝に来ていた担当ディレクターがそのホエー豚を東京に送り、スタッフに食べてもらった。
しかし、東京からOKが出ない。
困ったディレクターがなにかアドバイスがないかと源さんのもとをたまたま訪ねた。

「その豚はね、ボクも良く知る豚だったから、残念ながら何の協力もできないよって言ったんだ。
ところが、そのディレクターが東京にうちの豚肉を持ち帰ったら、これは美味しい!!ということになったらしんだよ。
だからうちを取材したいって言ってきたんだけど。
先方のこともあるし、それを無視してうちが出ますってわけにいかないじゃない。
狭い社会だからね。

それでも毎日、毎日ディレクターから電話が来るんだよ。
あんまりしつこいから、じゃぁ、源ファームという名前を公表しないこと、極秘に撮影すること、を条件に取材を受けたんだよ。
そしたらロケの日に、近所のひとが訪ねて来て、ロケ隊を見ちゃった。
そしたらあっという間に、ゲンちゃんのホエー豚がどっちの料理ショーにでるんだよって、ばれちゃった」

放送終了後、電話はひっきりなしに鳴り続いた。
ハムやベーコン、ソーセージも作ったそばからなくなってゆく。
レストランには源ファームの豚丼を食べに来たと海外からも観光客が来る。
おかげで潰れるという心配はなくなった。

「けどね。ホエー豚ブームのせいで、販売用の生肉が急激に伸びた。
そのせいでね。ボクにとってなにより肝心な、生ハム作りができなくなってしまったんだ。
生ハムのために確保していた肉が片っ端から売れてしまうんだから。
結果として、生ハムの完成が3年は遅れてしまった」

2009年11月12日

源ファーム 大美浪源 第四話


1947年大樹町生まれ。十勝・大樹町、養豚家。源ファーム代表。
豚にホエー(乳精)を飲ませて育てるホエー豚を平成15年より飼い始める。
現在はホエー豚研究会会長。

朝はきれいに晴れ上がっていたのに。
見ろ!いまじゃどうだ。
空が茶色い砂埃で夜のように染まっている。
ロッジの窓から見える農業用道路も、
すっかり砂埃に視界を遮られ、もはやちょっと先も見えない。

豚舎は大丈夫だろうか。屋根でも飛んだら一大事だ。
いやそれどころか。
「オズの魔法使い」でドロシーが家ごと竜巻に巻き上げられたかのごとく、
せっかく建てたこのレストラン兼仕事場のロッジも、
そのまま持ってかれそうだ。

まぁそうなったらそうでもいいか。

それほどの春の嵐だった。
この日、5月19日に起きた十勝の嵐は、
オホーツク海の低気圧が原因で、大樹町の隣町である広尾町では瞬間風速29.3メートルを記録した。

「風塵」という大変珍しい気象現象です。

と年老いた気象予報士は、全国ニュースでまるでさっきまで嵐の中にいたかのごとく驚いてみせた。
嵐の中にいれば、嵐の中にいるとはわからないものだ。
嵐の外ほど、嵐がきたと声を出し手を振り騒いでいる。

ゲンさんは豚舎も豚も、家族も家も、
すべての無事を確認し終えて、テレビを見ながらなんとなくそう思った。


北海道・十勝の南。高台に上れば日高の海が見とおせる大樹町で、豚屋家業は40年になる。

1頭1頭、自分の豚は自分の眼と直感で状態を確かめながら育ててきた。
ゲンファームがチーズの副産物「ホエー」を豚に与え始めたのは10年前になる。
ホエーとは、チーズを作るときに出てくる「乳清」のこと。
最近は大々的にテレビで「ホエー豚、ホエー豚」と取り上げられるようになり、
「あぁあのテレビで有名なホエー豚をそだてておられる・・・」と言われることが多くなった。
そう言われると何となく複雑な思いになる。
10年前、ホエーを豚に飲ませたゲンさんに理解者はいなかった。

帯広の会社を辞め、24歳で大樹町に帰ってきたゲンさんは、26歳の時に従妹の友達だったすみ子さんと結婚した。
出会ったのが1月の中旬。結婚式は4月1日。
あまりのスピード結婚に、エイプリルフールの冗談だと思って欠席する友人もいたという。

結婚して本格的に養豚業を始めた二人だったが、ほとんどゼロからのスタートだった。

「失敗に失敗を重ね、豚のことが分かるまで7~8年かかったわ」
とすみ子さんは言う。
父母の時代には100頭前後だったが、今では500~600頭の豚を飼っている。
これも現代の養豚業にしては少ないという。
結婚してから今日まで苦労のなかった日はない。
大樹町で2軒まで減った養豚農家を今まで続けてこられたのも、
借金を返してこられたのも、
そして生ハム作りを続けることができたのも、
ゲンさんの傍にはいつもすみ子さんがいてくれたお陰だ。

「女房は辛抱家ですね」

夫婦に転機が訪れたのは今から9年前。
「元気づくり事業」という名のもとに、農業開発普及センターが7団体に補助金を出すことになった。
十勝の事業を活性化することを目的にした補助金制度だ。
そこに名乗りを上げようとゲンさんに誘いをかけたのは、
同じ大樹町で育った幼馴染、インカルシペの米山さんだ。

大樹町からはまだ手を挙げている人がいなかった。

米山さんには白樺の森を開拓し、コテージを作って大勢の人に開放し、大樹町を活性化させたいという夢があった。
ゲンさんには大樹のチーズ作りから出たホエーを飲ませた豚肉を加工し、ホエー豚を広めたいという夢があった。

補助金が下りることが決定し、レストランを併設した源ファームがオープンしたのは平成12年10月21日のことだ。

しかし、ホエー豚はちっとも売れなかった。
ホエー豚のおいしさは理解されず、バラ肉とロースだけがよその豚と同じ値段で安く買い取られた。
ファームの脇には、売れずに残った部位が山積みされ、雪に埋もれていた。

それが「どっちの料理ショー」で取り上げられて少しずつ様子が変わった。