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2012/02/26

ポットの先欠けについて

久しぶりに事務所の資材室を見たら

珈琲ポットが奥の奥の箱の中にどんどん溜まっていて、

偶々それを見つけたボクはポットを前にして、

色々と思惑しています。

 

先っぽが欠けた珈琲ポットたちは

負傷した兵士のように前線から外され、

野戦病院のように、この管理室に運ばれ段ボールの中に溜まっているのです。

 

ポットの先っぽはその美しいフォルムの代償として、

かちんと、少しでも堅いところに触れると、

欠けてしまう宿命を背負っています。

おそらく、欠けてしまう瞬間は食洗機の中で互いに

食器と食器がぶつかった場合が一番多いと思われ、

その、おそらくというのは、

大概の場合、その瞬間を目撃されることはなく、

手が滑って落としてしまったというようにハッキリと現場が目に見えることはなく、

ポットの先欠けは、いつの間にか欠けてしまっていました、

という見えないうちにその生命を終えています。

 

そうなったらおしまい。

ゴミです。

捨てましょう。使わないでね。

 

優しい口調だけれど、冷やかな女性たちの暗黙のルールが

お店の通年になっているらしく、

だから、どんどん資材室に

先欠けポットが溜まってしまっている状態なのです。

マメヒコで年間に捨てられたり割れて処分されたりする食器の量は

捨て猫や捨て犬の処分とおんなじ、

実は目を背けたくなるような数(計算してないけど金額もスゴイはず)なのです。

 

でも、溜まる一方と言うのも、

なにやらおかしいと思いませんか。

だってポイと捨ててはいないと言うことですから。

欠けたらその場でポイというルールを遂行するのなら、

溜まらないはずでしょう。

 

それは、恐らく、これもボクの勝手な推測ですが、

そういうルールはルールとしてあるのだけれど、

たぶんポイと一息に捨てるのは忍びないのでしょう。

だって、先が欠けているだけで、ポットとしての機能は何一つ問題ないのですから。

身体はまったく、どっこも異常ないのに、前歯が欠けただけで、

死を宣告されるなんてそれはあんまりじゃありませんか!?

そういう気持ちが女性スタッフの中にあるんだろうと思います。

(聞いてないから知らないし、たぶんなんにも考えていない可能性が大だけど)

 

 冷やかなルールを集団の一員として決定しておきながら、

運行する一個人となると、わたしはそこまで冷徹ではありませんよと、一員の立場から外れたようなことを言う。

「あたしが決めたんじゃないのよ、あたしは別段欠けてたってかまわないけれど、

みんなが、ダメって言うから、ごめんなさいね、捨てるわね、恨まないでね、さよなら」。

「あたしが決めたんじゃないのよ、あたしは別段かまわないけれど、

両親が、ダメって言うから、ごめんなさいね、別れましょう、恨まないでね、さよなら」。

 

食器類は欠けたら全く使わないというルールはわかりやすく、

反論の余地のない単純明快なルールだと思います。 

それでいいのです。それでいい。

ボクだってその一員の一人には違いないわけですし。

 

思惑しながらふと。

ボクはこっそりとこれらを店に戻すことを思いつきました。

ポットはポットとして、注ぎ口のフォルムはキュッとしているべきだし、

欠けにくそうな、いかにも頑丈ですっていう無骨なポットでお茶は飲みたくない。

かといって、先っぽにゴムがしてあるポットではもっと飲みたくないし、

かといってこの程度の、先が欠けてしまうものを、外してしまうのもどうかしら。

 

明快な理由などなく、なんとなく見捨てる気にならないなぁといういたずら心で

ボクは店に戻してみました。

スタッフはまた、すぐさま「欠け野郎」を見つけ出し、

前線からつまみ出してしまうでしょう。

そうしたら、ボクはまた、

それらを見つけてこっそり戻してやろうと思うのです。

 

欠けても構わず使いましょう、なんてルールを強要する気なんかさらさらなく、

いたずら、として戻してみる。

そう思いたったのです。

いたずらを思いたち実行するのは、ボクしかたぶんいないから。

2012/02/24

リンゴの実について

新年度の採用を始めました。

ざっと春からやることだけでも、

✚ マメヒコの店内だけで見られる映画=マメヒコピクチャーズ、その制作、上映。

✚ 店内だけで配布している雑誌=M-Hicoエムヒコ、の作成。

✚ エフエム富士[83.0MHz] での新番組、Radio Mame-Hico

✚ エフエム世田谷のコーナー番組、マメとクルミラジオ、

✚ 雪が融ければ、北海道、十勝平野での3年目の畑

 

通常営業以外にこんだけあって、通常営業だってあなた、

朝8時から、夜11時まで、ほぼ無休で3店舗やるというのは、

実はそれなりに大変なのでありましてね。

 

それなのに、さらにこんなに、すべて新しいことをやるなんていうのは、

「まったく、よくやるわねぇ」、と、声を揃えて呆れられているこの頃なのです。

 

でも、実は昔から大変なことをやってきたわけで、

その昔と今を単純に比べるとですね(単純に比べるなんてことは不可能と承知で)、

今の方が昔よりずっとラクだよな、と、この頃、いつも思うのです。

(さらに言うと、その頃にいたスタッフはもう誰もいないから、

昔と今のマメヒコを比較できるのは、ボクくらいなものなのです。

マメヒコを1番長く続けてるのは何を隠そうボクなわけで、それもたった一人で!?

それはスゴイことじゃないですか!?)

 

では、どうして、昔より大がかりなことに取り組んでいるわりに、

楽チンと感じてしまうのかと、六本木にあるお気に入りカフェで

チャイラテを飲みながら考えてみたんです。

 

まず、マメヒコ生活にボク自身が慣れて、苦を苦と思わなくなった。

という仮説Ⅰが思いつきます。

 

高原でマラソンのトレーニングをすると、

最初は苦しいけれど、徐々に空気の薄いことに身体が慣れてきて、

心肺能力が高まり、いつのまにかスゴイからだができあがっている。

その身体で、酸素のたっぷりあるホノルルあたりで走ったら、

もう楽チン楽チンとなってしまった。みたいな。

 

けど、それはきっぱりと違います。

ボクの心肺能力が高まっているという感じは、もうまったくない。

(マメヒコマラソンに必要とされている心肺機能とはなんでしょうか)

苦に対しては過剰なほど敏感だし、高まるなんてアナタ、

衰えを感じることはあっても、高まりを感じるなんてことはまるでない。

 

年をとって丸くなったんじゃないか。という仮説Ⅱも成り立ちますね。

たしかに、年を取ると丸くなると言いますね。

水戸黄門みたいなね。どんなことでもカカカと笑って、許しちゃうって言う。

けど、どうもボクはそうではない気がしてるんです。

年を取って、さらに怒りっぽくなってる気がするし、

特に、好き嫌いはハッキリしていて、

紐を結ぶ靴などめんどくさいと、あるとき以来まったく紐靴は履いていないし、

冠婚葬祭も行くと虚しさだけが募るばかりで、

よっぽどじゃないと出席しないことにしてしまったし、

日中でも眠たかったら、処構わず横になって寝てしまうし。

丸いとはおよそほど遠い、イガイガ虫みたいになっている。

 

ボクなりに考え、そして出した結論は、結局のところ、

フルーツの無いところでフルーツを食べたければ育てるしかない、

ということじゃないかと思うんですよね。

 

オレンジが食べたい。アップルが食べたい。そう思いたち、

サンダル引っかけて、八百屋に行って、スーパーに行って、

アップル、アップルと言えば、ふじでも、

つがるでもジョナゴールドでも買えるならそれで良い。

 

けれどね。

もしここが人里少ない小さな島で、ボクはこの灼熱の島で、

あの清々しいアップルを食べたいと思ってしまったら

(たぶんバナナがぶら下がってたらそれで済ますとは思うけど)、

林檎の種を植えて、木を育て、実がなるのを待つしかないんだろうと思う。

それ以外に何か方法があるなら教えて欲しい、と言うことですね。

 

リンゴはほかの品種の花粉が雌しべに付いてはじめて受精する性質があるので、

実をつけるために2つ以上の品種が必要です。

もし1本だけだと花が咲き、小さな実を付けるけど、

直径1cmぐらいで落ちてしまう。

そして桃栗3年、柿8年とは、リンゴとて同じことで、

やっぱり種を地面にまいてから、10年くらいの年月を経てようやく実が成る。

 

まぁ、その、そーゆーことじゃないかと思うんですね。

リンゴの成らない木を育てていた頃より、

小さくとも実がついていれば日々の苦労は相対的に薄れていくという理屈が、

たぶん一番しっくりする。

 

そして、そーゆーことはそこのあなたにも言えることじゃないかなと思います。

2012/01/16

大きなレモンについて

マメとクルミというのをやって3ヶ月あまり。

来てないヒトにこのことを説明するのは、

小春日和を感じたことがないヒトに小春日和を説明するようなもんで。

あんまり意味がないと思います。

 

土曜の朝、渋谷店で、僕の話を熱心に聞く、30人ばかり。

傍から見てれば、あれはなんのカルト集団かしらって、

眉をひそめられても、おかしくない。

それくらいの想像力はボクにだってあります。

なんだか、宗教じみたことをやってるちょっと気も悪いカフェ、

と思われたって、言われたって、

すいません、あたしたち気も悪いかもしれませんよね、

としか言いようがないんですね。

 

ただ、ボクと影山くん(クルミドコーヒーを始めたヒト)と

なんとなくそのとき思いついたことを話す回、

をやったほうがいいよねと始めてみて、

1ターム(計10回)で辞めるつもりだったんですけど、

やってみた結果、4月から第2タームも続けてやったほうが

なんとなくいいと思ったんです。

理由は説明できませんけど。

 

ボクはマメヒコのスタッフの女の子に、ことあるごとに言ってるんです。

「マメヒコはざっくりだからね、ざっくりやらなきゃダメだかんね」。

これがどういう意味なのか、って考える機会があったので

ここに書き留めておきます。

 

ざっくりとは、どういうことか。

それは大きなレモンを見てわかったんです。

 

先だって瀬戸内海の島にレモンを採りに行ってきたんですけどね。

あるレモン畑に、ある一本の木があって、その下に、

ダチョウの卵ほどの大きなレモンが落ちてたんです。

びっくりしてなんですかこれ?と畑の主人に聞いてみたら、

「あー、採らんで投げとったレモンはおーきーなって、勝手に落ちるけん。

そいつは落ちとったまま一年近く、木の下におったもんじゃないかのー」。

って教えてもらったんです。

 

このレモンは採られないまま、勝手に大きくなり、その寿命をまっとうして、

勝手にぽとりと木から落ちた。

ボクらの知ってるレモンは商品としてのレモンなわけで、

都合のいいサイズに木から切り落とし、商品として完成させてるものなんですね。

レモンの商品価値はその大きさにあるんですよ。

大きなレモンは皮が厚くて、身が小さく扱い使いにくいからでしょう。

けれど、ずっと木にくっついたまま、自然に寿命をまっとうすれば、

レモンはいくらだって大きくなるモンなんですね。

商品として完成させるには、はさみを入れて

死なせなきゃだめだということなんだと知りました。

 

そう思ったらね、マメヒコの完成度なんかやっぱりどうでもいんだな、

と納得してしまったんです。

 

マメヒコの完成度を高めるというのは、そんなにむずかしくないと思うんですよ。

とっても美味しいケーキとか、すごく見栄えのする店員とか、

ものすごい雑味を除いた珈琲とか、素晴らしいインテリアとかね。

そんなことを用意するのは容易い。

ただし、ただしですよ。

それは「静」であることが前提となってきます。

つまり「静」に近づけばどんなものでも完成度は上がるわけです。

言い換えれば完成度を上げるというのは、

限りなく「静」に近づくことを選ぶことなんであって、

さらに言い換えれば「動」から離れることなんじゃないかとボクは思うんですね。

 

そして「静」というのは、死ぬということだと。

いや違うかな、死ぬということが「静」なのかな。

とにかく、完成度を求めるというのは、死ぬことを求めることだと思うんですね。

 

あっ。

なにも哲学や禅問答とかそういうことを言いたいわけじゃないんですよ。

ただ何となく大きなレモンを見てそう思ってしまったんです。

 

街に完成度の高いビルをいっぱい作る。

会社に完成度が高いヒトをいっぱい採用する。

国会に完成度の高い政治家を当選させる。

そんな「死ンだもの」を集めたって、

その瞬間は素晴らしいかもしれないけど、

そン名完成度の高いモノばかり用意したらその先どうなの?

そもそも人間は生き物という不完全なものなのに。

って、何となく思ってしまうんです。

 

それより。

ボクは「動」であり続けることを選択したいわけでね。 

イヤ、継続的に完成度を求めるのがヒトとして大切なんだよ、キミ、キミ。

そりゃね。完成度の定義はそれぞれ違うでしょうから、

ボクがなにをか言わんやは、

勝手に解釈してくれて構わないンですよ。 

 

今年は映画を作りたいんだよねって、みんなに言ってます。

実は映画ってわかりやすいから言ってるけど、

商品としての映画でもなんでもなくて、

マメヒコだけで見られる映画もどきみたいなモノを作れたら面白そうだなって

思ってるだけのことです。

こんな話しをすると、

それは傑作なんだろうな?  面白いモノを創るつもりなんだろうな?

って、すぐ聞いてくるヒトがいるんですけど、

たぶんそれは、金をかける以上、元が取れるんだろうな、

って心配してるのかなって思います。

でも、そんなこと知らねーよっていうのがボクの正しいところだし、

そんなの目指してどうすんのかなっていうのが、ボクの心の中なんですね。

前回の芝居の前後も、

種々、酷評してくれた親切・意地悪なヒトがいっぱいいたんです。

そういう酷評は作り手の陰で言えばいいんであって、

評価する権利が我々にあるとか何とか言って、

なんだかデリカシーねーの、って思いながらニコニコ黙って聞いてました。

 

毎日違うメンバーでお店を開けていれば、

瞬間瞬間の完成度、瞬間風速の評価なんて意味がないわけですよ。

だからカフエ マメヒコはざっくりやって、

なんとなく続けていければそれでいんですよ。

たまにピントがずれたヒトがいたって構わないし、

とにかくあんまりこだわらないどこーよって。

 

大きくなりすぎて、誰にも見向きもされずに、

勝手に木から落ちた、その大きなレモンに、

「マメヒコはざっくりと、やっていけばいいけん。それしかできんじゃろが」。

そう言われた様な気がボクはしたわけで、

それを皆さんにお伝えしておこうと、ちょっとだけ思いました。

 

ただいま春に向けてスタッフも募集しています。

2012/01/04

業態転換について

おととしにひとりの初老の男性のひとつのさみしい訳を知りました。

このままではなんだなぁ、聞いちゃったモンなぁ。

マメヒコでなにかできないかと考えた末に、

紆余曲折、パートⅢを始めたんですね。

 

それが店を始めて一年経った秋ごろ、

またなにか深い訳があったのかな。

おじさんはふと、ほんとにふっと木の葉が落ちるように

ボクらの前から何も言わず消えてしまいました。

そのことをボクはちっとも恨んだりしてませんが、

狼狽するみんなの顔を見て、

冷静に、さぁて、どうしようと少しばかり困りました。 

顔色、罵声を観察しながら色々考えあぐねた末、

これをやるしかないな、と、7週間でマメヒコ飯店を形にしました。

 

とんかつと、純喫茶と、パン工房を併せ持ったパートⅢを形にした時も、

定期券を使えば1週間ただで食べられる中華風?食堂、マメヒコ飯店を形にした時も、

どちらも。

このほかの選択肢があれば教えて欲しかった。

 

ボクが知りうる限り、ほかの選択肢があったとすればそれは、

「なんにもしない」、という選択肢しかなかった。
そう思います。

 

ボクらの周りにあった、

いくらかのモノ、

わずかばかりのお金、

ささやかな場所、

狭い了見と経験、

そしてなぜかそこに居合わせた、ヒト。

そしてそのヒトの顔に映っている、運命というのかな機運。

 

これらすべてを考慮した結果が、パートⅢであり、飯店であり、

そもそもカフエ マメヒコなんでした。

 

左から右に直線を歩いていれば、出会いもあるけれど、

哀しい別れだっていくらだってある。

そのとき。

 

なんにもしない、辞める、という選択肢を選ぶこともできた。
けど選ばなかった。

それが、いまでしかないんです。

 

映像制作から飲食業へ。

カフェから劇団へ。

劇団からとんかつへ。

とんかつから中華へ。

・・・・業態転換。

 

マメヒコを初めてただの一度もボクは転換したことなどない。

ただ一直線に歩こうとしすぎた嫌いはあるかもしれないけれど。

 

毎年、年の始めは

今年もまただれか居なくなってしまうのかなぁと、

ナーバスになってしまいます。

それは、年の暮れに、年の初めのフィルムを重ねてみたら、

やっぱり、欠けているモノが際だつもの。

 

そして今年もきっと、そうなんだと思う。

フィルムにぽっかりと空席が目立つ。

それでもやっぱり。

なんにもしない、という選択肢をボクは選ばないと思う。

そのことを、すごいことでしょと、ボクは思っていて、

ほんの少し誇らしいのだけれど、べつにそのことを褒められたことはなく、

ただひとつ、いつも業態転換でいそがしそうね、と気の毒そうに言われてしまう。

 

転換とは前進ということじゃないか。と自分でなぐさめて。

 

あけましておめでとう。

旧年中は大変お世話になり、ありがとうございました。

今年もカフエ マメヒコに、よろしくお付き合いくださいませ。

今日から三軒茶屋、渋谷、飯店、ともに開店です。

 

 2012,1,4 カフエ マメヒコ 井川啓央 

2011/08/28

缶切りについて

「北海道に広い畑を借り、そこに東京のスタッフが住み、
そこで採れたものを東京のカフエで使う。
それを、ちっぽけなボクらカフエがやる。

そのことをボクらはハタケ マメヒコと呼ぼう。
そのことはきっとなにか意味があるにちがいない」。

漠然とした確信を持った「ハタケ マメヒコ」の2年目の夏が終わろうとしている。

食糧自給率が年々下がりつづけている。
食べものそのものに関心を持たない若い人たちの増加。
遺伝子組み換え作物の是非。
農薬や除草剤の過剰な散布。

食べものを扱うボクらが食べものを作ってみたいと思うことは自然なことであり、
むしろそこからやってみないと、
取り巻く問題がなんなのかすらわからない。

声高に批判に唱和しても、意味がないじゃない。

農の仕組みを変えなくては何も変わらない!!!
農に対する行政の取り組み方や法規制を変えるための一票を!!!
世界へ競争力を持ち得た大規模農業の推進策!!!

大きなことはボクらのできることではないし、
今のボクらにできることは、関心の少ない広い広い裾野に、
広く低い間口を持つカフエとして
小さな参加を提案、提供すること。

そういうこと。
そういう考え方。
そういうマメヒコのイデオロギーに。

表に裏に共感してくれるヒトたちが大勢いてくれるんだと思う。
だからこそ、ボクらはハタケ マメヒコをやれているんだと思う。
ありがとう。ありがと。
けれど。
けれどね。

ハタケでは毎日ひっきりなしに問題は起きているんだよ。
気持ちを削がれるようなことがいくらでもあるんだよ。
青い空の下でへこんだりしてるんだよ。
途方もない気持ちで夕焼けを見ているんだよ。
共感してくれてたヒトたちに気持ちは削がれてしまうんだよ。
そういうことに意外なほど、・・・・ボクらは弱い。

缶詰が。
ぽつりとテーブルの上にひとつある。

美味しそうな白桃の缶詰。
これを食べたい。
缶切りを探そう。
たしか引き出しの奥に、

・・・あった。

刃を前後に当ててみる。
切り口からシロップがあふれ出す。

手を切らぬよう用心してふたを開けよう。
桃を取り出さなくちゃ。
フォークがいいかな。
箸のほうがいいかな。
小さなトング?
シロップはスプーンを使おうか。
いっそ、ボールに全部空けてしまおうか。
口を付けたら唇を切るよ。
取り皿がいくつもいるね。

缶詰を食うとき。
空けるには缶切りがいる。
けれど空いてから食うには別な道具が要るんである。

堅い缶を空けるために「共感」という缶切りがなければ缶は開かない。
それはそうなの。
けど、空いたとしても、缶切りで中身は食べられないんだよ。
そのことをボクらはことあるごとに思い出さなくてはならないと思う。

中身を食べるには、缶切りとは全く別の道具を用意しなくてはならないことを。

どこにいても同じだと思う。
再就職しても、結婚しても、
缶を開けるのと、中身を食べるのは別。
食べ続けるにはいくつもの道具を用意する必要がある。

開いてしまえば缶切りは、引き出しの奥にしまっておけばいい。
残暑厳しいけれど、みんなは元気にやっていますか?
やっててほしいよ。

2011/08/04

マッチングについて

日曜日の混んでるとき、若い男性客が店員を呼びつけて、

「おい、椅子にガムがついてたぞ、このジーパンはビンテージだからクリーニングできない。
だから弁償代金として2万円寄こせ」。
「どうしたらいいでしょうか」とハタケにいるボクに対応している店長から電話があって、
「仕方ないから払ったら」とボクが言い、結局2万円支払ったのでした。

これは昨日の話。
「おまえの店はどういうつもりで、カレーにこんな高い値段つけてるんだ」
とその中年の男女は、やいのやいのとお会計時に店員を怒鳴りちらし、
さらにしばらくしてから、今度は電話をかけてきて、
「おまえの店はどういうつもりで禁煙なんだ、1時間後に喫煙できるようにしろ」
と、やんややんやと怒鳴って、
店員がトホホとなってしまった。

そういうことが立て続けに渋谷店でありました。


ガムがついてるぞと怒るお客に、申し訳ありませんでしたとお金を払う。
カレーが高過ぎると怒るお客に、申し訳ありませんでしたとお金をもらう。
お金を前にして、カフエの店員というのは何とも無力なんですね。

こういうどうでもいいようなことでも続けば、みんなしょげてくる。
気にしてないようでいて、じんわりとしぼんでくるのがわかる。
カフエというのは一つの閉ざされた空間ですから、
こういうことがじんわりと効いてしまうんです。

けど、こういう嫌な思いはカフエの仕事を100としたら0.0001くらいのことでしかない。
10000人のお客さんが来てくれて、接客してたら、一人いるかいないかでしょ。
いやいや。それでも多いかな。
10万人に一人いるかいないかだと思う。
だから、そのためにいちいち対応マニュアルなんて作るより、
ほっといた方がいい。忘れた方がいい。

そういえば。

マメヒコを作るとき、万人のお客に受けなくていい。
いや、受けてはいけない、と作ったことを思い出しました。

ほんの何人かの心にグサッと何かが残る店であればいい。
誰にも彼にも八方美人ではいけない。そう思ってました。
それは今も変わらない。けど。

マメヒコはこれこれこうこうです。
と表の看板に書いてあるわけじゃないですから。
中は一体どんな風になってるのかわからない。

様々な偶然、出会いで、店に入って来てもらう。
けれど、その中身が、みんなにいいよとなってない。
だから、時々、何とも後味が悪いことが、お客さんとお店に起こってしまう。
マッチングしないんですね。

カフエは狭いターゲットに絞れば絞るほど、
低い敷居の広い間口のカフエでなければならない。
というのが、ボクの考えです。
だれでも入りやすくして、分母を大きくするしかない。

当然、間違って入ってくるお客さんは多くなってしまう。
そういう皆さんには申し訳ないなと思う。
けど、どうしようもないです。
だから食べログのようなものがあるんでしょ。

最初の一回が、素敵な出会いになれるような仕組みが、
カフエでもできればいいのにね。
パートⅢはそういうのをやれないかな。
最近そんなことを考えたりしているのです。

2011/07/30

そんなモンについて

昨日も面接があって、ずっと事務所で応募者を待っていたんだけれど、
結局、来なかった。


約束の時間になっても来ない。
連絡もない。
連絡なしのドタキャン。

こういうことは、まぁまぁよくある。

最初の頃。
面接をドタキャンするヒトなんていないと思っていた。
応募資料には熱い応募動機が書いてあるんである。
かくかくしかじか。だから是非一度、このワタシに面接の機会を。
そうですね。では一度、お会いしましょう。
場所はこちらで、履歴書をご持参の上お越しくださいませ。
ではでは、と何回かのやりとりの末、来ないんである。

こちらは「道に迷ったかしら」。「途中で事故にでも遭ったんじゃないかしら」。
とそんなことを本気で思って心配したりも、した。
した、んである。
いまは、しない。

それは、何年も同じことをしていくうちに、
一定の割合でそーゆーヒトがいることを知ってしまったんである。
まぁそんなモンだよね、と思ってしまったんである。
一度傷ついたことをそんなモンだよ、としてしまえば、二度目は傷つかない。
自分なりの予防線を張っているんだと思う。


男の人に裏切られたヒトは、
男なんてそんなモン、と予防線を張り、
会社に裏切られたヒトは会社なんてそんなモン、
お客なんてそんなモン、世間なんてそんなモン、政治家なんてそんなモン、
都会なんてそんなモン、テレビなんてそんなモン、
そうやってそんなモンをいっぱい作ることで、
もう二度とボクはワタシは、
誰かに期待したけどあっさり裏切られた馬鹿な自分、
にはならない。
結果として、そんなモンという予防線がほどけない釣り糸のように、
この国にまとわりついている。

そうじゃなきゃやっていけない。
そりゃそうだよ。みんな臆病者だしね。
けどね。
こういう希望もあると思うの。

一定の割合で、裏切られる。傷つく。
これは割合である。確率なんである。

ということは、一定の割合で「裏切られることを裏切られる」、
ということもまた真なり。起こるんである。

そんなモンだと思っていたけど、そんなモンじゃなかったということが、
起こるんである。
それを幸運とか運命とか呼ぶかは、ヒトそれぞれだし、
ボクは幸運とか運命とかすぐ言うヒトをあんまり好きではないけれど。
世の中また捨てたモンじゃないというのも確かなんである。

そんなモンと世の中のすべてに高をくくり何もしないヒトは、
大きく傷つくこともないかもしれないけれど、
雨上がりのアスファルトに蒸気が立ちのぼり、
逆光でキラキラ光る小道を歩く高揚感もまた、
失っているという気がするんである。

希望は捨ててはいけない。

2011/07/29

鼻が利くことについて

豆は足が早い。昔からそういう。


足が早いとは、俊足というような意味ではもちろんなくて、
すぐに「いたむ」、「腐る」よ、ということなんですね。


昨日、豆ケーキの大豆を提供しようと思ったスタッフが、
なにやらあやしい。
味見をしたら、「いたんで」いたので廃棄した。
そういう報告があった。


「いたむ」。
「いたむ」。
「いたむ」。

「いたむ」は「腐れる」とも違って、
なんとも言い難い、イヤーな風味、になることである。
今のヒトたちは(若い年寄りにかかわらず)、
この「いたむ」ということが感覚的にわからないらしく、
「いたむ」って言うけど、どんなことなんでしょうか。となる。

木登りすればどの枝が折れやすく、どの枝なら折れにくいか。
そういう感覚が、経験もないのでわからないのだと思う。
とにかく危ないものには近寄らないで育ってきている。
若いヒトでも年寄りでもあまり関係ない。

この時期。
大豆やあずき、インゲンなんかの豆を扱うマメヒコでは、
この「いたむ」に敏感でなくてはならない。
足の早さに敏感でなくてはならない。

豆が「いたむ」には条件があって、古くなったから「いたむ」んではない
豆を煮る。煮上がる。アンになる。できたアンは急いで冷ます。
急激に冷まさず、生温かい30℃から50℃くらいの状態が、
30分でも続けば、「いたむ」。
「いたむ」。
「いたむ」。

だから一気にその危険温度帯を通過しなくてはならない。
そのために急いで冷やさなくてはならない。
室温が低ければ、平たいバットに広げて冷ます。
暑ければ氷水に当てるなどして、
とにかく30℃以下にしなくてはならない。

その昔。
「いたみ」に対して温度による工夫ができなかった。
氷もなければ冷蔵庫もない。
そこで塩か砂糖の出番、なんである
大豆に塩をたっぷり入れて味噌にした。
小豆に砂糖をたっぷり入れてアンにした。
それぞれ防腐保存の役目があるから、
減塩だ微糖だのと中途半端なことはしない。
今はできない。
だからソルビン酸といった防腐剤が必要になってくる。
ソルビン酸は人体に害がない。そういうことになっている。
たとえ害だとしても、「いたむ」とか「腐る」よりはずっとましである。
だからたっぷり保存料を使う。


カフェと言えど、食べものを扱っていると言うことは、
人の命を脅かす危険があるということである。
危険に対して敏感過ぎて過ぎることはない。
自動車をはじめ機械メーカーや、医療関係、
鉄道や飛行機といった交通機関は危険に鈍感であれば、
すぐに大きなことになる。

数ある過去の事件が教訓となって、大変なことになるぞと
新人に徹底して恐怖心を植え付けている。

今回、マメヒコもちゃんと気付いてくれるスタッフがいたから未然に防げた。
けれど、もしスルーしていたら大変なことである。

ただ。

そういうことに敏感であるヒトたちだけを集めていく、
敏感であることを第一に掲げると、
また違った困ったことになっていく。
ムズカシイ。

普段はポヤンとしているけど、いざというときは「鼻が利く」というヒトがいい。
けれど、そうゆうヒトは極々まれである。

敏感すぎるヒトか、ずっとポヤンとしているヒトか。
敏感すぎる組織か、ずっとポヤンとしている組織か。
どうしても、その二択になってしまう。


「鼻が利く」ヒトを見つけたら、ほんとうに宝物だと思ってしまう。

2011/07/26

エスケープについて

ボクがちょうどパートⅢをのぞいたとき、おじさんが声を荒げて怒ってました。


冗談じゃない。
何にもわからない女連中に、
「きちんとお肉は揚げなさい」、だとか、
「とっとと時間内に仕事は終わらせてください」だとか、
仕事の一挙手一投足を、とやかく言われる筋合いは毛頭ない。
あんな素人が、オレをなんだと思っているのか。

おじさんの話しをいちいち聞けば、うんうん。いちいちごもっとも。
とやかく言った女連中には配慮が欠けている。

あいつらときたら、男ってものがまるでわかってない。

相当怒っている。
もう一方の話しも聞いてみる。

おじさんはきちんと見張ってないと何をするかわからない。
きちんとこちら側で管理してやらないと。
こないだだってね。

とまるで飼い犬の飼い主のようなことを言ってる。
まぁね。たしかにね。
それはそれ。もっともなことも多い。
おじさんにもっと女性ってものをわかってもらわないとね。

そういうどーでもいい話しが北海道から戻ったらごっそりあって、
どこに顔を出しても、ほんとにどーでもいいことばかり、
ボクのとこに寄せられてくる。

ハタケはハタケで穏やかに楽しい毎日なんてことはなくて、
似たり寄ったり。
怒ったり怒られたりの毎日だったから、
いささかイヤになる。そういうときは寝るしかない。


ただ。
こういう話しはどこにでもあるんだと思う。
人と全く付き合わず、何もしなければ
何もないのかも知れないけれど、
何かをする、ヒトと関わって生きていくということは、
どうでもいい誤解とは切っても切れず、無用に神経をすり減らすことになる。

たいていの場合、ハッキリとした問題が横たわっていて、
それをどければ解決する、ということではない。

なんとなくアイツの顔が気に入らない。
なんとなくアイツの態度が気に入らない。
なんとなくアイツというヒトが気に入らない。
要はそういう話しなんである。

あぁメンドクサイ。メンドクサイのはダイキライ。
女の子たちは口をとがらせて唱和するけれど、
メンドクサクしてるのはアナタたちなのだから仕方がないではないか。


おじちゃんに一通り話しを聞き終わり、

「まぁ、女の子が多いところだから苦労あるだろうけど仲良くやってよ」と言ったら、

「了解。オレの話し、わかってくれるのは社長だけだよ」と言ってくれた。

もちろん、そんなの社交辞令なんである。

そして、「はい、この話しはこれでおしまい、お店開けて頂戴」と笑ってくれた。

もちろん、作り笑いなんである。

でもね。


そういうことが大事なんだと思う。


愚痴は言う方も聞く方も結構、疲れる。
それをあちこち散々聞いてたら、気持ちが落ちる。
そのときにエスケープを作ってくれること。
それがあるか無いかが、「ものを言う」んだと思う。


北海道で、こちらが近道と細い山道を行くことがある。

ぐんぐんぐんぐん走っていく。
あたりは薄暗くなって、さらに細道になって、
それでも上へ上へと目指していく。
あるカーブにさしかかったとき、突然上から一台の車が下りてきた。
向こうもかなりのスピードで白煙を上げてブレーキを踏む。
互いにブレーキを踏んだまま、にらみ合う。

ちぇっと舌打ちする。
向こうの舌打ちも聞こえてくる気がする。

しばしの沈黙があって。
ふと。


車と車のちょうどまんなかあたり、
ほんのわずかだけれど、轍の脇に芝生があり、梢から漏れた日差しが当たっている。

あぁ、助かったと思う。
道をそれてその芝生に車を運ぶ。
上の車がそろそろと下りてくる。
こちらの脇をぎりぎりすれ違うことができた。

運転席を見る。運転手がどーもどーもと会釈してくる。
こちらもいいえいいえと会釈する。

もし仮に、ボクらの間にそのエスケープがなかったら。

近道どころか相当な遠道になっていたと思う。
そしてその日は一日、憂鬱な日になってしまう。

2011/07/20

絵の具の数について

ハタケに来て、地方での生活というものをしていると、時々こう聞かれます。

なんであなたたちは、こんなとこに来てこんなことをしているのか。

わざわざなんで、という感じがたっぷり伝わってくる。

こちらでは、大きな会社に勤めることが良し。
大企業、公務員、医者、弁護士というような仕事に就くことが良し。
それぞれの職業の善し悪しと言うよりも、
既得権益がたっぷりある仕事に就くことが上で、
そうではない仕事は下。

そういう感じが伝わってくる。

この町でそう思っているヒトは結構な数いると思えるので、
日本の大半がそんな風に思っているんだろうなとぼんやりしてみる。

そして、こう続く。

あなたたちは、立派な大学を親のおかげで出させてもらっているにもかかわらず、
夢だかなんだか知らないが、なんでこんな畑仕事なんかをしているのか?
産業構造的にハタケ(=農民)をやるというのは下層の仕事ではないか。
(少なくともあなたたちの野良仕事は遊びにしか見えない。)
きちんと休みがあって、労せずとも高給が取れ、
女性なら早いうちに食いっぱぐれのない男性に出会う機会の多いところに居て、
子を早くたくさん産むのが幸せなのですよ。
あなたたちの親はあなたたちの幸せを考え、
だからこそ自分の贅沢を慎み、かわりに、
あなたたちへ勉強机や辞書を買い与えたのであり、
学習塾に通わせたのであり、大学にまで通わせてあげたんですよ。
そのことを理解しているのか。
君たちときたら。一体何を考えているのかちーともわからない。

けして強く批判されると言うことはないです。むしろ好意的に迎えてもらっている。
けれど、ちーともわからない。という感じは伝わってくる。
つまりボクらは親不孝に気付いていない若気の至り連中、ボクはその筆頭がしら。
そう言うことになるんだと思います。
ボクらもニタニタ笑ってなんの反論もしないから、なおさらちーとも伝わらない。

時代。

大きな潮流の変革期にさしかかっていることはみんなわかっている。
もう何が上で何が下かすらわからなくなってきている。
そもそも上とか下とかあるのかすらわからなくなってしまっている。
そういう背景が後押しするのか、ワカモノがこぞってマメヒコを志願しに来ます。
けれど。

既得権益のある歴史ある職業群から比べれば、
カフェなんてものは、いいですか、
産業構造のうま味順で言えば最下層にあるんですよ。
むしろ、田舎の守られた農業なんかより、うま味で言えばずっと下にある。
そういうものなんです。
ひがんでるんじゃないです。そういう自覚がありますかというはなし。

人手は薄くて当たり前。
1人の人間がいくつも仕事を兼任するのは当たり前、
○○専用のスタッフや部署なんてのはありえないし、
店員として接客もやる、調理もやる、
さらに発注もやる、経理もやる、掃除もやるし、シフトも作る、
デザインもやれば、あれもこれもする。
どんな仕事でもそうですが、目に見えているものは氷山の一角。
ごっそりある裏方の仕事は兼任してだれかがやってるから回っている。

どんなことでも自分たちでやる。
その色々の中にひとつ、ハタケがある、そう言うことなんだと思います。
少ない絵の具で、書きたい絵を描いているんだと思います。


少ない人数でなにかをやるときにひとつのコツがあると思う。

「ひとりあたりが頑張る」。

それはそうですね、
ひとりひとりが自分のパフォーマンスを最大限発揮すれば、
全体の仕上がりを大きく左右するのは当然です。
そしてもうひとつ大事なことは。
それより大事だとボクが思ってることは。

「なんでもかんでもきちんとやらない」。

どっかに専門的に肩入れすれば、どっかはおろそかになる。
ただでさえ人数が少ないんだから。
全部を全部きちんとやるなんて無理なんだと思う。
それでも全部やりなさい、なんていうのは、
なにもしてことなかったヒトたちの幻想か、
湯水のようにお金があるところにいたヒトの理屈だと思います。

なんで学校は始めに12色の絵の具を買い与えてしまうんだろうと思う。

絵の具が7色しかないなら、7色で描ける絵を描けばいい。
6色なら6色の絵を描けばいいし、
2色なら2色の絵を描けばいい。
絵の具の数に合わせた絵を描く楽しさということを知った上で
色を増やしたければ増やせばいいのにと思ったりします。

そりゃ不手際多く、叱られることも多いですよ。
お客様センターも、渉外担当も、現場監督もいないんだから、
へらへら笑ってごまかすしかないんですけど。

ケセラセラ、毎日、楽しくやるしか前に進めない、んだから仕方ないとボクは思う。